時代遅れの組織構造と労働契約、そして2015年からの働き方。

日本の小中高等学校の教育というのは、基本的に自分の頭で考えずに言われたことをひたすらこなせる人が評価されるように設計されていると思う。戦後の教育改革がなされた時代において、国のために必要な人材はまさにそういう人たちだった。


3.11以後被災地にボランティアに行ってみた人はわかると思うけれど、復興するときというのはとにかく膨大な単純労働が発生する。ひたすら物資を集め、運び、整理し、配り、土砂をかき分け、運び、捨てるだけの仕事が大量にある。戦後も似たような状況だったろう。そういう現場では自分の頭で考える人はほとんど必要ない。必要なのは、指示に従って正確に素早く作業をこなせる人だ。


高度経済成長期を支えたのも、自分の頭で考えずにひたすら言われたことを確実にこなす教育を受けた人たちだった。工場でひたすら人が機械を作る製造業が日本を支えた。しかし工場が機械化され、日本の産業のうち知識労働の割合が増えてくると、だんだん自分の頭で考えない人が困る時代になっていく。この話自体は別に目新しいものじゃない。四半世紀前に外山滋比古先生が『思考の整理学』においてグライダー人間と飛行機人間という比喩で看破していたことだ。

自分の頭で考える人と、考えない人のギャップを埋める必要はない


しかし、今の時代においてもそのギャップを埋める必要はない。言われたことをひたすら確実にこなす人材は依然として膨大に必要だからだ。それはこれからも変わらない。ただ、そういう人たちの待遇は確実に悪くなっていく時代になっている。


それはなぜか?


誰でもできる仕事は機械に取って代わられるか、より安い労働力を提供する人が持っていくから、というのは誰でも思いつく答えだと思う。
しかしそれだけではない。労働契約という契約形態と、既存の組織構造自体が非常に非効率なものになってしまったからだ。

労働契約というスタイルはなぜ時代遅れになったか?


労働契約とは、使用者の指揮命令に従い、労働力を提供する代わりに賃金を得るという契約類型だ。自動的に仕事をしてくれる機械がない、または機械を動かすために人手が必要な分野では労働契約の効率は良かったし、今でもまだ一部の産業では通用する。国にとっても税金は取りやすいし、使用者に様々な義務を課すことで国民の多くの保護を図ることができる便利な代物だ。しかし知識労働の割合が増えたという時代の変化と国による労働契約に伴う負担の増加によって、効率の悪いシステムとなってしまった。


会社にとって労働契約を締結するという行為は、博打の要素を排除できない。採用するとき、会社は採用する人が期待通りの仕事をしてくれるかわからないし、応募者も自分のやりたい仕事ができる職場かはわからない。双方何もわからない状態でいきなり強固な契約関係に入る。「たまたま」採用した人が期待通りか、それ以上の仕事をしてくれ、応募者としても楽しく働けたら勝ち、という博打だ。もともと分が悪い賭けなのに、これだけ変化が激しい今の時代にうまくいくわけがない。今までしていた仕事がいきなりなくなったり、激変することはよくある。そうなってもまだ会社も労働者もハッピーのままでいられる可能性は非常に低い。

既存の組織の非効率性


日本のほとんどの会社はピラミッド型であり、特定の事業を永続的に遂行するために組織されている。フラット型の組織も増えつつあるが、数は圧倒的に少ない。どちらの組織も、今の時代においては3つの点で効率が悪い。


1つは、上下関係が長期間固定化されることによる非効率性。

組織の上部層は取引先や顧客以外から評価されないから、自発的に勉強したり自省したりしない限り、加齢に伴って能力的に衰えていく。しかし上場企業でなければトップが首を切られることもないし、トップの給料が減らされることもない。無能なトップが事業の邪魔になっているのではないか?


2つ目は、事業に必要な能力しか評価されないという非効率性。

会社における人材は、会社の事業の遂行において役に立つ能力だけが評価される。裏をかえせば、会社の事業の遂行に関係のない能力は、どんな素晴らしい能力であっても評価されないということだ。それは非常にもったいないことではないか?


3つ目は、会社の枠が固定化されることによる非効率性。

会社というものをイメージするとき、ほとんどの会社員はどこまでが会社か、具体的には、会社がやってる事業はどこまでで、会社に所属している人は誰か、ということが明確に区別できる存在であることを前提としている。しかしそのような固定化された枠が、激しく変化する時代の流れに追いつくことを阻害しているのではないか?

時代遅れの組織構造と労働契約が崩壊する過渡期に発生したノマドやコワーキング


最近流行りのノマドやコワーキングという言葉は、労働契約の博打性・既存の会社の組織構造の非効率性が徐々に省みられ始めた結果生じたものだろう。おそらく2015年頃には労働契約の非効率性がもっと社会的に表面化し、組織と労働というそれぞれの概念の転換期がやってくると思う。


世の中に仕事は大量にある。しかしそれをこなすためには労働契約である必要はない。契約ではなく仕事をベースにした労働形態と組織形態を模索すべきだ。


今はまだ仕事ベースで安定的に収入を得る仕組みがない。自由を求めて個人事業主になったとしても、安定がなければ労働者よりも自由がなくなる。また、個人の力というのはたかが知れている。だからノマドやコワーキングというスタイルは今のまま維持することはできず、これからまた変化・発展していくだろうと思う。コワーキングスペースからビジネスが立ち上がっても、作った会社が既存の組織を踏襲したものであれば、また同じ非効率を繰り返すだけである。

ベーシックインカムと仕事ベースのシステム


ベーシックインカムという考え方は最低限の安定を保障し、結果として人間の自由を保障するという点で面白いとは思う。しかし大きな欠点はそれだけで生きていけるとほとんどの人間は堕落し、社会との関わりを絶ってしまうだろうということ。それは人間の可能性をむざむざ放棄することで、とてももったいない。


仕事ベースのシステムでは、誰でもできる仕事ほど単価が安く、特定のスキルや知識や能力を持った人しかできない仕事ほど単価が高い。また指揮命令関係はないから、誰もやりたがらない仕事ほど単価は上がる。需要と供給の一致する点が単価になるというシンプルな原理。ただ実現のハードルはかなり高い。仕事の単価をどうやって決めるか。成果をどのように定義するか。仕事はどうやって創りだすのか。誰が仕事を管理するのか。そもそも何を仕事と定義するのか。簡単なタスクも仕事になるのか。クリアーしなければならない課題はたくさんある。

枠から自由になった組織


組織というのは、何らかの目的を達成するために存在する。しかし組織の存続自体が目的化することが往々にしてある。

本来、民法上の法人というのは事業目的を達成すれば解散するものとされていた。

民法第68条(法人の解散事由)
1 法人は、次に掲げる事由によって解散する。
(1)定款又は寄附行為で定めた解散事由の発生
(2)法人の目的である事業の成功又はその成功の不能
(3)破産手続開始の決定
(4)設立の許可の取消し


この規定はすでに削除されているが、組合の解散事由を定める民法682条でも、「組合は、その目的である事業の成功又はその成功の不能によって解散する」としている。どちらも今から100年以上前に定められた規定だ。

このような法人の本来的意義からすると、組織の枠を維持するために組織を存続させるということはそもそもおかしいということになる。そして、組織において枠があることは必要条件ではない。何らかの目的を達成するために必要であれば組織化し、目的に変化があれば枠の形を変え、ときには分裂し、目的を達成すれば解散するという目的志向の組織を考えるべき時が来ていると思う。

自分がやってみたいこと


いろんな専門分野を持った人たちが緩やかにつながり、プロジェクトを創りだす。それに付随して発生した仕事がRPGみたいにクエスト形式で仕事一覧になって、自分のやりたい仕事を早いもん勝ちでとって、達成したら報酬もらえるという仕事ベースのシステムを作ってみたい。

ベーシックインカムだけでは生きていけない程度の額を支給しつつ、労働契約に入らずに自分のやりたい仕事をやればそこそこの収入が手に入り、いろんな人が社会との関わりを保ちその人の持つ多面的な潜在能力を最大限発揮して生きていけるような組織インフラを作ってみたい。


2015年ころまでの目標です。



今年は2012年。明けましておめでとうございます。

(このエントリーは、@rashita2さんとのtwitterでのやり取りをベースに書いたものです。)

本エントリーは以上です。
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